「ある個人的な体験…」
私の家から片道3時間余りの都市で一人暮らしをしている親がいる。昨秋、その親が骨折し入院した。その病院では、約1ヶ月間、私の親はベッドで起き上がることさえしていなかった(念のために書くと、骨折している親が痛がったのだと思う)。高齢の親が1ヶ月間寝たきりに…もう立ち上がれなくなっているのでは? と悪い予感がした。案の定…だった。
その後、私の親は、リハビリ病院を経て、老健に移ることになった。そこで、『私の出番!』がきた。親が入所申込をする施設に家族の事前面談があったのだ。 事前面談の最後に、相談員さんから差し出されたのは「重要事項説明書」だった。なぜ、契約者は私じゃないのに?! 精一杯の丁寧さを発揮し「親は、契約関連も含め、自分で自分のことをやっていることにプライドを持っています。そのプライドが生きる支えになっているところもあります。なので、本人が入所する時に契約に関して説明して頂き、本人に署名させて頂きたいです」と伝え、私が署名することを断った。
親の入所には「必ず付き添ってください」と施設に求められ、付き添った。そこで、入所に関する諸手続きがあった。入れ替わりにやって来る職員から、支援計画や入所契約等の説明を聞き、何度も署名をすることになった。私は、新しい職員が来る度に「入所するのも契約するのも親なので、親に説明してくださいませんか」と言う羽目になった。段々と私の怒り具合が増していくなかで「施設内で、呼吸が止まっているのを発見された時など、命に関わることが起こった時に施設にどういう対処を求めるか」という書面の説明が始まった。明らかに言われていることがわかっていない親。親が理解していないのに話を進め、私に向かって署名を求める職員。私の命ではない、親の命の話だ!という怒りの爆発を必死で抑える私。とんでもない三つ巴が出来上がった。結局、私が親に説明し、親の意思を確認し、親が署名をした。そこでその職員が「ここで働いてずいぶんになりますけど、ご本人がこの書類に署名できるのは本当に稀なんです。初めてかもしれない」と、親を褒めた?!(その施設は認知症の人の利用者は少ないという説明を受けた。私の親の認知は「年齢相応」という検査結果だった)
断っておくが、介護現場で働いている人や特定の職員や施設を非難するつもりはない。この施設だけがそういう対応をしているのではなく、これは、この国の介護の現実の1つの側面なのだろう。ただ、私は「私の体は私のもの。私の心は私のもの。私の人生は私のもの」と思って、フェミニストカウンセリングをしてきている。その私にとっては、このような対応は、高齢になった自分が絶望している姿しか想像できなくさせる。自分の命をどうして欲しいかを聞いてもらうことさえできない現実。命に関わることを自己決定できないと決めつけて、ものごとを進めていくのが当たり前になっている状況。それは、その施設を利用している人を職員がどういう眼差しで見ているかを十分に伝えてくれた。そして、これは特定の施設や職員の問題ではなく、その眼差しの背後には「そういう対応をするしかない」程の、介護の現場の大変さがあるのだと思う。その大変な現実を作りだしている国の制度…。
この国が「人」をどう考え、どう扱うかがよくわかる体験。私の個人的な体験は、背後にある社会制度や制度を作る社会の価値観の問題。それはフェミニストカウンセリングのスローガンである「personal is political」そのもの。だから、諦めずに社会変革を目指していきたい。
※この記事は、学会、フェミニストカウンセラー協会、フェミニストカウンセリング・アドヴォケイタ―協会が持ち回りで投稿しています。