私は〇〇…なのか?

先日、ある人に「◎◎さんは、しっかりしてるよね」と言われた。私は「しっかりしている」ように見えるらしい。でもその人は、私が「しっかりする」ために努力していることを知らない。私は、しっかりしているわけでも、しっかりしたいわけでもない。でも、ある状況のなかで、役割上、やらなきゃいけないことをかなり必死でやっていただけだ。つまり、「しっかりしている」ように見えているのは、私の必死の努力の産物。 その人に、自分の努力を見せていないだけと言われれば、そういうことなのだろうが、なんとも言えないもやもやが残った。
 そもそも私は、子どもの頃から「◎◎さんは〇〇だよね」と言われるのが大嫌い。もしかしたら多くの場合は、「変わってるよね」「おかしいよね」など、いわゆる否定的な言葉が〇〇にに入るからだったのかもしれない。でも実は、20代後半からは、むしろ「変」と言われる自分を誇りに感じることさえある。でも「おかしい」「変わってる」以外の「〇〇だよね」には、全力で抵抗したくなる(心のなかではしている)。 
 そういえば、はるか昔に、当時の職場で自分のコーヒーを入れる時に、同僚に「コーヒーいれるけどいりますか?」と聞いたら、「フェミニストの◎◎さんにコーヒーなんていれさせられない」とすっ飛んできたことがあった。この人は、「フェミニスト=コーヒーをいれたり、コピーをとらせたりすると、女性差別だと怒り出す、怖い人」と思っているんだろうなと、自分でコーヒーをいれている彼をみて思った。多職種でチームを組み仕事を回していた職場なので、同僚として「そこそこ仲がいい」方が仕事がしやすかった。でも、私のことを怖がっている人と、そこそこ仲良くなることは至難の業。まったくもってめんどくさい。でも当時はその同僚が抱いていたであろう「フェミニスト=男性嫌い。細かなことでも『女性差別』と抗議する。雑用なんて頼もうものなら、猛抗議される。怖い人」という偏見、誤解が今よりさらにまかり通っていた。フェミニストな私は「◎◎さんはフェミニストなのに優しい」と何度言われたことだろう。
 なぜ、人は他者のことを「この人は〇〇」と、その人の一面だけを切り取って、一言で表したがるのだろう? そうすることは、「一人の人」の豊かな多面性を覆い隠してしまうように思う。場合によっては差別やスティグマを助長してしまう。例えば、フェミニストだから怖いと思われた私のように。フェミニストのイメージは時代とともに、少しずつ変わってきている。言葉が持つ意味、イメージは、その時々の権力関係を反映している側面もある。そんな曖昧なものに惑わされ、せっかく出合った人の一面だけをみて、「この人は〇〇」と決めつけてしまうのはもったいない。せっかくなのだから、その人の「豊かな多面性」と出会いたい。そのような関係性の深まりを楽しんでいきたい。そのような関係性が社会いっぱいに拡がっていくことが、1人ひとりの人権を大切にできる社会につながると思う。

※この記事は、学会、フェミニストカウンセラー協会、フェミニストカウンセリング・アドヴォケイタ―協会が持ち回りで投稿しています。