私が識字運動で学んだこと
「夕やけを見ても あまりうつくしいと思はなかったけれど じをおぼえて ほんとうにうつくしいと思うようになりました」
この一文は1973年、識字で文字を学んできた高知県の被差別部落で生まれ育った北代色さん(当時68歳)が書いた手紙の一部である。言葉とその意味を知り、文字に表せることで情景の共有が深まり、自分は独りぼっちではない
という意思が伝わってくる。リアルタイムで知った北代さんの一文に胸を打たれた。
私が徳島大学に進み、市内の被差別部落の識字学級に参加し始めたのが1974年。識字学級は夜ご飯が終わる7時ころから始まる。毎回5-6人くらいの女性が通ってきていた。60代の人もいたが、70代以上の人がほとんど。みなが近況を
出し合ってひとしきりワイワイしたあと、席についてマンツーマンで教えていく。私が担当したのは80代の女性。初めての参加ということで、まずは鉛筆の持ち方から練習する。なんとか持てるようになるとあいうえおから書き始めていく。鏡文字も多く、「あらー手本とちょっとちがうねー」「どないしてもこうなる」と互いに笑い合いながら時間が進む。
文字を教えることが鉛筆の持ち方の練習から始まったことに衝撃を受けた私。鉛筆という道具を使いこなせて、はじめて文字が紙に書けるのだという当たり前のことがわかってなかった自分を恥じる。ひらがなや漢字を覚え、そこそこ文章を書き、使いこなしてきたと思っていたが、なにもわかっていなかったと思い知らされた。
作文の発表を聞く機会もあり、駅で字が読めず切符が買えなかったことや「字が読めないことをばれんように教えてもろた」という話も出て面白かった。「兄弟は学校へ行ったけど私は時々しか行かせてもらえず家の手伝いさせられていた」なども語られる。インドの「女の子に教育を受けさせるのは隣の家の樹に水をやること」という諺が重なる。
被差別部落における識字運動は1960年代に九州の筑豊で始まる。その後、部落解放運動の女性たちの集まりを通して全国の被差別部落へと広がってきた。部落解放運動関係の識字運動の解説などには、参加者のほとんどが女性であったことにはふれられておらず、ジェンダー分析はない。
フェミニズムにおいても、被差別部落女性の識字運動の評価はほとんど見かけない。私は、上野千鶴子氏が展開してきた複合差別論には違和感を持っていた。その違和感のひとつが、彼女の展開にはアメリカのブラックフェミニズムが切り開いてきた中産階級/白人フェミニズムに対する異議申し立てが含まれていないこと。これでは差別する側の権力構造があいまいにされ、マイノリティ女性は複数の差別をされる(・・・)存在として客体化されていくしかない。フェミニズムは女性が客体化されることにNOを突き付けたはずなのに。
私は交差性を抜きに差別の複合性を語ってはならないと考えていますが、そのわけは共著『部落フェミニズム』と熊本理抄著『被差別部落女性の主体形成に関する研究』(pp.305-371)を読んでもらえればと思います。それから、第二派フェミニズムにも日本の家父長的反差別運動にも異議申し立てを続けていくので、その立ち位置におられるみなさんは、受けて立ってくださいね。
※この記事は、学会、フェミニストカウンセラー協会、フェミニストカウンセリング・アドヴォケイタ―協会が持ち回りで投稿しています。

