お隣さんとの不思議で悪くない時間

3月のとある日、高齢女性が一人で暮らす隣家を訪ねた。お隣さんとは挨拶やたまに短いおしゃべりをするだけのお付き合いだが、「最近お顔を見ないなー」と気になっていた。いつもは玄関ドアにぶら下げるだけの回覧板を、顔を見て直接渡そうと思い立ったのだった。

久々に会ったお隣さんはびっくりするほど窶れていた。「ねーちゃん、今日がわからへんねん」と心細げな声。思わず、「鬱陶しくなかったら、これから時々声かけていい?」と聞いてしまった。

「頼むわ…ずっと寝てるねん。寂しいねん、こわいねん」とお隣さん。少し前までは、結構毒舌で、近所の人やなかなか訪ねてこないお子さんの悪口を言ってガハハと笑っていたのに…。ショックだった。

この後、早速お隣さんが「薬飲みたいんやけどわからへんねん」とやってきて、はじめて隣家に上がり込み、薬を飲むのを手伝い、少し話した。電気も点いていない薄暗い部屋で、立派な介護用ベッドがあるのにずっと炬燵で寝ているというし、ほとんどじっとしているので夜も昼もわからず「早くお迎えが来てほしい」と過ごしているという。娘さんは看護師、息子さんは遠方に住んでいるため、コロナ禍でなかなか訪ねてこられないらしい。

この日以来、週に数回、散歩に行ったり、おしゃべりしたり、買い物を頼まれたりが続いている。いろんなタイミングがうまくかみ合い、最近のお隣さんは、朝一人で歩くようになり、そこで会う人と話したりするようになった。家を訪ねると電気も点いている。ベッドで寝るようになり、「おなかがすくようになったけど、配色弁当が不味い」なんて話も出てくる(昨日は「食べるもんがないねん」と訪ねてきたので食パンを分けっこした)。時々話が怪しいこともあるが、声に張りが戻ってきたし、歩く足取りも以前よりはしっかりしている。

桜のころに近所の公園まで一緒に歩いた時のこと。ベンチに座ってお隣さんの昔話を聞いている途中、ふと、壁一枚隔てただけの距離にいながら、これまで自分の人生とはほとんど関係がないと思っていた人と、こんな時間を過ごしていることに不思議な気持ちになった。お気に入りの本に「選ぶときには自分という存在は確定していない。選ぶことで自分を見出すのです」という一節がある。あの時、「声かけていい?」という呼びかけを選ぶことで、今まで持ったことがないようなこの不思議な時間を楽しんでいる私がいる。なかなか悪くない時間だと思う。

※この記事は、学会、フェミニストカウンセラー協会、フェミニストカウンセリング・アドヴォケイタ―協会が持ち回りで投稿しています。