暑い夏に考える 「過去」と「今」と「未来」と「和解」
7月の長雨や台風などの災禍に遭われた皆様には心よりお見舞い申し上げます。
皆さん、ようやくコロナ禍が落ち着いた今年の夏をどのように過ごしていらっしゃいますか。
災害級の暑さの中、私は、所属する団体が企画したスタディーツァーで韓国を訪問した。日韓の歴史とジェンダーを体験的に学ぶ、小学生から60代まで全国から集った38名のパワフルな女性だけのツァー。メインは、関心によって3つのコースから選んで訪問するという企画で、私は『ナヌムの家』と『戦争と女性の人権博物館』を訪問するコースに参加した。
30年前に初めて証言をしてくださり一緒に時を過ごしたハルモニ達が、『ナヌムの家』に暮らし、お一人の方は病気になられ、そこで亡くなられたということは仲間から聞いていた。数回しかお目にかかることはなかったけれど、証言の時とは違った明るい声や姿も強く印象に残っている。私は、「被害の証言者」ではなく、「苦難に満ちた人生を歩まされることになった一人の女性」と出会っていた。今回ようやく訪問することが出来、遺影に懐かしさ覚えつつ、感謝を込めて墓前に手を合わせることができた。
その時の証言はまだ活動を始めたばかりの、若かった私にとって、とても衝撃的なものだったが、また、複雑なものでもあった。当時、ハルモニたちの証言は『日本軍の戦争責任を問う』という運動の中で語られるようになった。日本軍は韓国を侵略しこんなひどいことをしたのだから、国は責任を明らかにしろというスローガン(オルグ)。しかし、その時の私は、この問題は女性に対する戦時下の性暴力として、全ての女性の課題、このような性暴力を繰り返さない社会に変わるために後世の女性達に伝えていかなければならない、とか何とかをアンケートの感想を書いたことを覚えている。聞くだけでこちらの身体が震える程の恨の籠もった声。私ができることは、同じ女性として、ハルモニ達被害者の語りから、苦しみをできる限り想像し、怒りを聞き、 尊厳回復を求めること。
それから30年、戦時下性暴力による被害という私の基本的な捉え方は変わっていないのだが、果たしてその認識だけで良いのだろうかという、落ち着かなさが心のどこかにあった。日本の戦争責任を私のこととしてどう考えていくのか。自分事にして考えることを回避してきたこの課題に今回の旅で向きあってみよう。そして「赦し」と「和解」とはどのようになしうるのだろうか。新しい出会いからなにかヒントはみつかるか。
『戦争と女性の人権博物館』では、日本の大学院でこの時代について研究したという若い女性の学芸員が私たちの質疑に応えてくれた。私は今の韓国社会、若い世代は”慰安婦”問題を戦争責任問題とどういう関係をもって受け止めているのか、30年前と変化はあるのかと尋ねてみた。 彼女の答は明確だった。当時も今も、日帝による慰安婦問題・戦時下性暴力の問題の大前提として日帝の戦争責任問題はあるので、国が責任と保障を認めることがなければ先にすすまないと。二重構造の土台部分の問題解消、その上でようやく、女性に対する暴力・攻撃として同じ位置に立てる、#me too が成立するということか。
当時を経験した人たちが年々亡くなられ、日本の侵略が過去・歴史となりつつある中、私たちは、私はその歴史の責任を加害者側の一員としてどう受け止めていくのか。日本ではますます議論は少なくなり、韓国では思索が進んでいる、思想の乖離。一つの戦争によって被害と加害の両面がある日本人にとって、加害者は国家、民は被害者。被害者の衣に隠れ、自らの国の背負っている加害性を自分事にすることを、とても遠いことにしているのではないか。
被害と加害が交錯する中で、被害の歴史を受けついだ人々と『和解』するために、私たちはどのように考えていったらよいのだろうか。女性というアイデンティティによって男性中心の社会構造から受ける暴力と差別は、国家間の暴力の責任問題の後回しにされてしまうことなのか。出会ったハルモニたちひとりひとりの名誉回復が賠償問題よりも軽いものであってはならない。フェミニズムはそのような中心と周縁を否定する思想のはず。日本のフェミニズムは、被害を経験した女性とともにありたいとするフェミニストカウンセラーは、この『和解』にどうコミットするのか。女性に対する暴力性を包含し続けている日本社会の政治性に抵抗することは歴史を越えた#me tooになりうるのか?韓国のフェミニストたちによる挑戦的な思索『被害と加害のフェミニズム』(解放出版社)を傍らに置きながら、帰国後の夏休みを過ごしてる。
※この記事は、学会、フェミニストカウンセラー協会、フェミニストカウンセリング・アドヴォケイタ―協会が持ち回りで投稿しています。