5月15日のぱたぱた日記

うっせえ、うっせえ、うっせわ!と啖呵を切るようなAdoの迫力ある歌がヒットしている。現代社会の形式ばったモラルや押しつけをふり払うようなパンチのある歌だ。歌詞の中に「あなたが思うより健康です!!」というフレーズがあるのだが、それを聞くたび思わずドキリとしてしまう。

私は、臨床心理学を学ぶ学生に、自戒を含め「カウンセラーは、健康をたてに“おこがましいこと”をする」と話すことがある。カウンセリングには当然、理念や目的があり、心の病や傷つきからの回復を目指す性質上、「心の健康」とは無縁ではいられない。しかし健康という概念には注意がいる。時代や社会、時の為政者に都合のよい「正常」や「適応」と同義的にあつかわれたら危険だ。人を都合よく鋳型にはめてしまう手段に使われかねないからである。それを防ぐため、人間学派の心理学者は、心の健康として「自己を認める(尊重)」「過去にとらわれず今を生きる」「安心した人とのつながり」「親しみある人間関係」等をあげる。理想的すぎるかもしれないが、カウンセリングが目指していることはこれに近い。FCでは、さらに、クライエントの主体性を重んじて、カウンセリングの目的をクライエント自らのエンパワーメントにあると考える。


けれどもどのような理念ではあっても、価値観であることに変わりはない。一定の考えや信念は長年持っていると、気づかないうちにものを見る尺度になってしまう。ふとした拍子に「心の健康」をもって人を見ている自分に気づき、はっとすることがある。その時の気恥ずかしさにAdoのフレーズが刺さってくる。

コロナ禍で、芝居を見に行く機会はすっかりなくなったが、私が舞台を観ることが好きだ。それは自分にしみつく「価値観」がシャッフルされるからだと思う。本やドラマでも同じなのだが、短時間で凝縮して、登場人物を浮き彫りにする演出は舞台が群を抜く。強烈な個性やさまざまな生き様を前にすると、安易に「健康であること」を推奨することなどはできないと思い知らされる。それは、狭い視野を広げて人への敬虔さを思い起す機会にもなる。


そして、シャッフルされた後に残る「そうではあるが、でも、やはり、これは大切…」と感じる思いは、私にとってかけがえのないものだ。30年以上前になるが、不倫を描いてブレイクした作家がいた。テレビや映画が大ヒットし「官能の美学」と言われた。彼の描く(主役の)女性のエンディングは、悲しく、もろく、切ない。男に捨てられ放心して雨の中にたたずむ、美しい自死で自らを演出するなど、「哀れな女」を男性視線で美しく描く。怖いもの見たさで、いくつかの作品を見た私は、思わず心の中で「こんな状態で(女性を)ほっておいてたまるか!」と叫んだ。考えてみれば、何ともおこがましい言葉だが、それは、当時の私の原点であった。そしてそれは、いまだに消えず、私がフェミニストカウンセラーでいる理由にもなっている。

どんなに自戒しようと、人の人生に介入するカウンセラーの仕事は、おこがましさと切り離せない。それならば、それを引き受けて原動力としていく覚悟を持ちたいと思う。

※この記事は、学会、フェミニストカウンセラー協会、フェミニストカウンセリング・アドヴォケイタ―協会が持ち回りで投稿しています。