不可視化される存在…

 ロシアがウクライナに侵攻して1年が経ちます。日々のニュースで「ウクライナ」の文字をみない日はありません。突然、日常生活を奪われたウクライナの人々の気持ちを思うと、なんとも言えない気持ちになります。

 でも、私は、この1年、ロシアのウクライナ侵攻のニュースを見聞きする度に、違和感を抱き続けています。例えば、アフガニスタン、シリア、イラクなど、世界には、長きに渡り紛争が継続している国がいくつもあります。その国々のニュースを見聞きすることは、ウクライナ侵攻に比べると、ずっと少ないのです。ウクライナだけ特別扱いされておかしいということではなく、ニュースにならない紛争で苦しんでいる人や、人生が変わってしまった人、命を落としてしまった人はたくさんいるのに、ニュースとして見聞きすることが少ないために、その人たちの存在を意識することが少なくなってしまっているのではないかと感じているのです。ウクライナのニュースに触れ、ウクライナの人々の気持ちに思いをはせることと同じように、アフガニスタンやイラクなど武力による紛争が長期化している国々の人の気持ちに思いをはせる人が、日本にどれだけいるのでしょうか? 私は、この1年、この疑問を抱き続けています。

 ニュースに登場することが少ないので、人々の意識にのぼらない存在というのは、不可視化された存在といえると思います。そして、紛争だけに限らず、性暴力被害者やLGBTQ+の人たち、様々な依存症からの回復者など、たくさんの「人」が、不可視化された存在になっているのが、私たちが暮らす社会の1つの現実なのだと思う日々が続いています。この社会の一員として、このような現実をずっと見続けていることが、本当に残念で、時に悔しく、そして時にとても腹立たしく感じます。

 「不可視化する人と不可視化される人」との間には、社会的強者と社会的弱者という力関係が存在しています。その力関係が一夜にして変わることは絶対にないので、自分がどちらの側に立っているのかを問われ続けているように感じることもあります。たぶん、実際に問われ続けているのでしょう。でも、この問いを忘れてしまったら、私は見えるものだけ見て、聞こえる声だけ聞き、不可視化されている人たちが存在することを想像すらしなくなってしまうかもしれません。誰もが、安心して安全に暮らす権利が守られる社会。そういう社会で暮らしていきたいから、不可視化されている人たちが、確かに存在していることを忘れずにいたいと、この1年間、さらに強く思うようになりました。

※ この記事は、学会、フェミニストカウンセラー協会、フェミニストカウンセリング・アドヴォケイタ―協会が持ち回りで投稿しています。