日本のフェミニズムのゆくえ

 現首相が誕生したとき、第一波フェミニズムの終焉の潮目を感じたのは、私だけだろうか。
 参政権を求めてきたフェミニズムの歴史は、今や広く人口に膾炙(かいしゃ)した。しかし、その参政権獲得の苦難を振り返ることもなく、差別主義的な言動を繰り返す女性議員が、地方自治体にも国会にも登場するようになった。
 ことはそれにとどまらない。その流れは皇室典範の見直しをめぐる議論にも押し寄せているように思う。フェミニストを標榜する少なくない活動家たちが、「女性天皇」を求める主張を始めているからだ。

  そもそも皇室典範見直しの議論は、安定的な皇位継承と皇族の減少という課題への打開策として、?女性皇族が結婚後も皇室に残る案、?旧宮家の男系男子を養子に迎える案、の2案に絞って国会で進められている。高市首相は「自民党としては、皇族には認められていない養子縁組を可能とし、皇統に属する男系男子を皇族とする案を第一優先として、国会における議論を主導してまいります」と述べている。
  男系による皇位の安定的継承を主張する国士舘大学の百地章氏は、次のように論を展開する。「憲法第2条は『皇位は世襲のものである』と定めており、これを受けて皇室典範第1条は『皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する』と定めている。男系男子こそが、皇室の2000年近い伝統を守るものだ」
「男系の女性天皇の問題は、男女平等や女性の社会進出などといったこととは次元が異なる。皇室典範第1条の女性天皇の禁止が、憲法第14条の『法の下の平等』に違反しないということは、政府見解も憲法学説も一致して認めている」

 「男系男子」という言葉が内包する家父長制の賛美には、かなりむかつく。男系男子の前提に「健康で障害のない男子」という優生思想的なニュアンスが透けて見えることにも腹が立つ。しかし、どれほどむかついて腹が立ったとしても、「だから女性天皇を求める」ということとは、思考の位相が異なるはずだ。
戦後、現人神(あらひとがみ)ではなくなった天皇は「平成」の時代を経て、その存続戦略を「祭祀者」として位置づけるよう舵を切ったように思う。もともと天皇の祭祀は、国家の安寧と豊穣を祈るものだ。天皇制にとっては、節季ごとに定められた儀式を執り行うことこそが重要である。また、天変地異の被災地や侵略戦争の戦跡を訪れては祈りを「捧げ」る。この「祈り」や、対話を通した「癒やし」の姿こそが、現代における天皇制の存続戦略なのではないだろうか。
 もうひとつ、天皇家は「近代国家の理想的な家族」として振る舞い、政府の広報戦略の下でマスコミはそれを一斉に報道する。適応障害で葛藤する雅子さんには「がんばらなくていいよお」と声をかけたくなるし、幼い頃からメディアで見せられてきた愛子さんの成長には、たしかに微笑ましさを覚えてしまう。しかし、それはさておき。この報道のあり方は、「私」の現実の家族がどれほどぐちゃぐちゃであっても、「日本にはこのような聖なる家族が厳然として存在するのだ」と人々に錯覚させる効果を持っている。

 そもそも、天皇・皇族には戸籍がない。天皇制は国家の戸籍制度とあいまって、人間を序列化し、排除する作用をもたらす。女性であれ男性であれ、そもそも天皇や皇族という存在は、本当にこの日本列島に必要なのだろうか。
 私が夢想するのは、天皇制を必要としない、誰もが地続きの「ただの人間」として生きられるコミュニティの姿だ。なぜなら、神聖化された「特権階級」という名の「人間外の人間」を認めれば、その対極として、社会には必ず「レイシズム」「優生思想」によって排除され、非人間化される「人間外の人間」が作り出されてしまうからだ。この両者は、人間を序列化し排除する同一の構造から生まれている。ゆえに私は、「上」であれ「下」であれ、「人間外の人間」を誰一人として作ってはいけないとつよく思う。

 日本の主流フェミニズムはどっちへ向いて行くのだろうか。周縁の私は見守るばかりである。

※この記事は、学会、フェミニストカウンセラー協会、フェミニストカウンセリング・アドヴォケイタ―協会が持ち回りで投稿しています。