悲しみの大きさ
この3月に父親が亡くなった。91歳の大往生だった。昨年12月に倒れて、もう危ないから帰るようにと言われて郷里に帰省して何とか持ち直して…というのを何回か繰り返して、3か月の入院の後、病院を転院した数日後に亡くなった。倒れる直前まで元気に畑仕事をしていたので家族が長く介護をすることもなく、倒れてから亡くなるまで3か月間あったのである程度心の準備をすることもできた。私は亡くなった前日には帰ることができ死に目にも会えた。
父親が亡くなってもう少し悲しくなったり、寂しくなったりするのかなあと思ったが、実はほとんど悲しみにくれる…という状態にはならなかった。大学卒業後に郷里を離れて、帰省するのは盆と正月の年2回、それも2泊3日だけ…という物理的な距離もあるのかもしれない。亡くなるまでの3か月に何回も帰省したりして、一応やるだけのことはやったよね…と後悔することもなかったこともあるだろう。もっと時間が経ってから、「ああ父親はいないんだなあ」と思って悲しくなったりするのかもしれないが。
この8月が初盆だったのでそれに合わせて帰省した。ほとんど何もしなかったが「帰ってきてくれただけでよかったよ」と言われた。それくらい期待されていないのだ。たまたま小学校の同窓会もあり1日多く3泊4日滞在した。いつも帰省すると疲れ果てるので、1日増えたらどれだけ疲れるかなあと思ったらそれほどでもなかった。
そしてふと気がついたのが、それだけ父親がいることがストレスだったのかもしれないなあということだった。父親がいなくて母親と姉(の二人暮らしになっている)だけの実家だったらこんなに気楽なのだなあと。亡くなってみると父親を慕う人もいたので「外面がよかったんだよ」と悪口を言ったりして笑いあったり。父親がいなくなって母親が弱ったりしないかとも思ったりしていたがそれも杞憂だったようだ。夫が亡くなったら妻は長生きするというのはこういうことなのかもしれないと改めて思った。
先日、ある人が「親も病気で、犬も病気で…」と話されたことについて、「親の病気と犬の病気を同じように語られるのはちょっと違和感がある」と反応した友人がいた。それを聞いて、いや、ずっと身近でいてくれた犬の病気も親の病気と同じようにこたえたり、亡くなってしまったらそれ以上に辛かったりすることもあるよなあと思った。悲しみの大きさは他人には測れないものだろうと思う。
※この記事は、学会、フェミニストカウンセラー協会、フェミニストカウンセリング・アドヴォケイタ―協会が持ち回りで投稿しています。