人は亡くなると「大事」になる??
今年の春に父が亡くなった。最後の頃は、ホームで具合が悪くなると、ホームが訪問医に連絡し、訪問医が救急搬送を指示し、救急病棟に入院し、ホームに退院することを繰り返した。高齢の父は入院すると、どうしてもベッドの上から動かない時間を過ごすことになり、退院してホームに戻っても「入院前にできていたこと」が出来なくなった。
私は「ホーム→救急搬送→入院→ホーム」の繰り返しのなかで、父の「人としての尊厳」は徐々に奪われていくように感じた。しかも、それは、誰もが自分の職務に忠実である結果のように思えた。例えば、ホームの職員は、入所者の具合が悪ければ訪問医に連絡し指示をあおぐことが求められている。訪問医は「具合が悪い。痛がっている。熱が下がらない」等の電話があれば、救急搬送を指示せざるえないだろう。救急病院は、患者を受け入れたら治療するしかない。そこには、父の「無駄な治療は受けたくない。延命は一切したくない」という意思に耳を傾けてくれる人は誰もいない。最終的に、「延々の繰り返し」に怒り心頭に達した私が「退院してもホームには戻らない。療養病院に転院」と決めた。そして、療養病院は「無駄な治療や延命は望まない」という私の希望に応え、痛みやしんどさを最小限にする対応をしてくれ、父は転院して1週間で亡くなった。父が亡くなり、病院を出る時に、お世話になった主治医や看護師さんに、心から「父がこの病院で最期を迎えられてよかった」とお礼が言えたことが、私の慰めだ。
父が亡くなった後は、誰もが経験するであろう怒涛の手続き。それは、葬儀社での「このセットのどれを選ぶ?」からスタートした。保険証はどうするんだろう?と思い、役所に電話すると「ここも」「ここも」と連絡先がどんどん増えていく。私には「なぞ」でしかなかったのが年金。「最後の年金を受け取る手続き」をすることになったのだが、すでに亡くなっているのに「最後の年金」という時点で、もう理解できなくなった。
あとでGoogleさんに聞いて理解したが…。電話での年金事務所とのやりとりでは、「あなたがお父様のお世話をされたご家族でしたら年金を受け取れます」「お世話? 例えば?」「同居しているとか、食事の世話をするとか(他にも例があがったが、見事に当てはまらない私)」「私は、十分に世話をしたと思っていますが、世間一般で『世話をした』になるかはわかりません。何かしらの基準はありますか?」…相手は絶句。そして、いろいろ説明してくれた…のだと思う。でも最初の「亡くなったのに最後の年金を受け取る?」がのみこめていない私は、説明を聞いてもよくわからない。
段々、私も、相手もイラ立ってくる電話は「父に権利があるものでしたら受け取ります。でもあなたのお金ではないのだから、そんなふうに言われる筋合いはありません。必要な書類を送ってください」という超気まずい終わり方になった。
聞いたこともないような書類を取り寄せたり、「私の人生でこんなにたくさんの書類に記入、署名、押印したことはない。しかも手書き」と思いながら書類を整えたり、どれだけの窓口に電話したのかさえわからない位たくさんの窓口に電話した。今は、まだこれらの手続きの道半ば。「人が一人死亡すると、こんなにたくさんの人に知らせて手続きしなきゃいけないんだ」と思い知った。でも、父が生きている時には、父の尊厳は削られ続けたのに(最後の病院を除く)、亡くなった途端に「重要人物」になったかのような書類・手続きの山。なんだか合点がいかない。なにかが根本的におかしいと思う。私たちが暮らす国は、どのような人を、どのように「大切」にしているのだろう? 私の子ども世代、孫世代が、私と同じ疑問を抱かずにすむ社会を夢見て、同じ疑問を抱く人とつながり、声を上げ続けていきたい。
※この記事は、学会、フェミニストカウンセラー協会、フェミニストカウンセリング・アドヴォケイタ―協会が持ち回りで投稿しています。

